といってもウィキペディア(Wikipedia)が詳しいのここを読んで頂ければ早いです。特に
復元天守…極力原型に近い形で再建
復興天守…史実と同じ場所(周辺)に天守が築城されたが形状を変更
模擬天守…史実には築城されてない城
は、今後もよく登場する用語かと思います。まぁ、特に厳密な区分があるわけで無いので、自分も間違って使う場合もあると思います。
といっても、天守があればお城ということではなく、戦国時代の石垣や空堀・土塁などの遺構が残る城跡のほうが自分は好きかもしれません。なかなか友人と一緒に行き辛いですが…
正直『五輪書』がここまで実戦的な本とは知りませんでした。よくあるような精神面を鍛える、といった内容なのかと思っていました。比較として柳生宗矩著『兵法家伝書』が随所に出てきます。こちらは禅の影響を受けているそうです。
トップ経営者オススメ書籍に挙げている方もいたので機会があれば読んでみては?

四国からの帰り道に淡路経由で帰った際に立ち寄りました。まったくの予備知識なしで行きましたので、石垣(写真右)の壮大さには驚かされました。
三熊山の山頂に築かれた山城(上の城)は、戦国時代に安宅氏によって築かれ、脇坂安治公によって近世石垣の城に生まれ変わりました。現在、一風変わった模擬天守(写真左)が建っています。昭和第一号の模擬天守だそうです。ここからの景色は、町並みだけでなく海も見渡せ気持ちよかったです。
山の麓の平城(下の城)は、江戸時代に蜂須賀氏によって築かれました。蜂須賀氏の本拠は阿波徳島のため、代々家老の稲田氏によって統治されていました。
山頂・山麓ともに石垣がよく残っていますので、淡路島に行く機会があれば是非立ち寄りましょう。

長宗我部氏による四国制覇の拠点でもあり、四国防衛の本営でもあったのがここ白地城です。
長宗我部元親公は、土佐統一後、阿波南部に兵を送り、その後ここ白地城の攻略に入ります。というのも北へ讃岐(現国道32号線)、東へ阿波(現国道192号線)、西へ伊予(川之江を経て現国道11号線)、そして南へ本拠土佐岡豊城(現国道32号線)と地理的に見ても非常に重要性を持っていました。豊臣軍率いる四国征伐軍の際も、ここ白地城に元親自ら入り指揮をとりました。
まさに四国平定戦は、白地城に始まり、白地城で終わったというところでしょう。
現在は、「あわの抄」というホテル(旧「かんぽの宿」)が建っており、遺構はほとんど残っていませんでした。

長宗我部氏最後の居城浦戸城は、現在その遺構はほとんど残っていません。城域には、国民宿舎桂浜荘や坂本竜馬記念館が建ち並び、天守台跡に祠があり、そこに説明板がありました。説明板よると、当時五間四方の三層天守が建っていたと思われる、との事です。(明治初期に書かれた書物らしいですが…)
立地的にも高知の名所桂浜にほど近いため、無残な城跡になっていますが、このエリアには、長宗我部氏の遺構が数多くあります。
・長宗我部元親初陣の像(写真右:四国を掴もうとしています。)
・若宮八幡宮
・一領具足供養の碑
・長宗我部元親公の墓
・長宗我部信親公の墓(雪蹊寺境内)
それぞれ微妙に離れていますので、車や自転車で廻ると良いと思います。マップのあるHPを見つけました。(ココ)一日かけてじっくり廻りたいところです。
ちなみに長宗我部盛親公の墓は、京都蓮光寺にあります。この地に無いのは残念です。

川之江城は別名仏殿城とも呼ばれ、現在写真のような立派な三層四階の模擬天守が建っています。他にも涼櫓、櫓門、隅櫓、控塀などがすべて模擬建築されています。
南北朝時代に築城され、戦国時代には立地の良さからなのか、度々攻城戦が行われました。その後一時廃城となりましたが、江戸時代に川之江藩が28600石で立藩します。しかし、わずか6年後には幕領となってしまいました。
そのため、ここまで立派な城は建築されていないでしょう。ただ、小高い山に建築されているので、麓から見てもひょっこり天守が顔を出し見た目も良いですし、天守からの眺めも良さそうです。(自分は見学時間が遅く閉館してました。)
立派な天守は、川之江市制施行30周年記念事業として建築されたそうですが、現在は四国中央市になっています。
戦国シュミレーションゲーム(『信長の野望 全国版』から)をプレイする際は、必ず長宗我部元親公で天下統一を狙うので、四国には思い入れがありました。もちろん長宗我部氏居城の岡豊城にも行きました。
四国上陸した際、まだ紹介していない4城(+1城:淡路島)を紹介します。
かの司馬遼太郎先生も長宗我部氏の小説を描かれています。
夏草の賦は、長宗我部元親公
戦雲の雲は、その息子長宗我部盛親公
が主人公です。長編小説ではないので一気に読めると思います。
最近読んだ『本能寺の変』絡みの本は、『光秀単独説』が中心だったので、ちょっと新鮮でした。(昔に同著による鞆幕府等が詳しい『義昭黒幕説』を読んだ事もありましたが…タイトルは忘れました…)
ただこの説を執る場合、最大の矛盾は、『なぜ光秀は、もっと前面に将軍足利義昭公の名を出さなかったのか。』ということでしょう。井沢元彦氏も言われているように、細川藤孝公への懇願・哀願とも取れるべき手紙に、将軍義昭の名前がないのは確かに解せません。手紙自体が偽物なら衝撃ですが…(参考)
後半は、秀吉による豊臣平和令ともいうべき惣無事令が本当にあったのかどうか、ってことでしたが、手っ取り早く国内戦を終わらせ、大陸出兵のための建前と言うのはよく分かります。
自分が思ったのは、信長も同じく
『惣無事令を使って天下統一するのか』(島津氏には発令してる?)
それとも
『完全武力討伐のみで天下統一するのか』(上杉氏・毛利氏はその気でいた?)
ってところも気になります。

戦国時代、上杉氏・北条氏・武田氏と三氏による争奪戦が行われたお城です。立地的に見ても、南北に国道17号線が走っており、北上すれば三国峠その先が越後、南下すれば武蔵・相模に入り、西進すれば信濃に入ります。交通の要所ともなれば、激戦地にもなるでしょう。
現在は沼田公園となっており、近代的な公園となっており遺構は少ないです。その中でも写真のような石垣や復元された太鼓櫓が往時を忍ばせます。
慶長年間に五層の天守が築城されたそうですが、高々27000石の真田信之公(真田昌幸公は上田城が居城。38000石。豊臣政権下は真田家が二家存続していました。)が、五層もある立派な城を築くとは思えません。ただ、江戸時代に書かれた沼田城絵図には天守が描かれています。ひょとしたら、信之が城を整備し、松代に移ってから、完成したのかもしれませんネ。ただ、関東でしかも外様大名が、よくも五層の天守を築けたものです。だからこそ改易になったのかもしれませんが…

豊臣秀吉公による小田原征伐のきっかけを作ってしまったことで有名になったのがここ名胡桃(なぐるみ)城です。
城跡はよく整備されており、本丸・二の丸・三の丸などの曲輪、空堀、土塁、土橋(写真)、虎口などを見ることができます。城の規模もさほど大きくありません。何より山城ではないので見学が楽です。
見学に来ると確かにこのような小城をいかなる理由で攻撃したのかは謎です。(沼田城には実に近いですが…)手柄が欲しかったのか、北条氏の命令か、秀吉の謀略か、真田昌幸公が挑発したのか(その割には家臣が死んでいますが…)、ただこれを理由に北条氏が征伐されたのは事実です。
注意:国道17号沿いにあるのですが、当時は看板等が見つけにくく、何度も往復してようやく見つけた記憶があります。沼田から国道17号を北上して行くと右手になります。気をつけて運転しつつ探しましょう。
当時、手紙は祐筆が書くことが多いので、その手紙が本人の意思によって、当時本当に書かれたものかどうか分からない、というのは納得しました。
細川幽斎公の章で、本能寺の変から数日して明智光秀公から幽斎宛てに書かれた出馬を懇願している手紙(結構有名です。『隠居して忠興に譲りますとか…』と書かれている手紙)も掲載されているのですが、その出典(『綿考輯録』「細川家記」)や花押・内容から細川家(強いては細川幽斎本人)が捏造した可能性があると出ていました。要は変を事前に知っていた可能性があるということです。確かに、変を聞いてすぐ剃髪したのか、山崎の戦いが終わって剃髪したのか、確認は取れませんからネ。変を事前に知っていたかは別として、光秀と秀吉を天秤にかけていたことはありえそうです。

越前勝山城は現在、石碑(写真左)のみが残っています。
信長政権時に、勝山城が築城され、江戸時代には越前勝山藩が成立し、以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めました。明治初期、当然のごとく廃城となるのですが、天守台や石垣の遺構が昭和40年まで残っていたそうです。しかし、市民会館建設のために残念無念取り壊されました。他にもっと良い立地はなかったのでしょうか?悔やまれます。
平成4年に上記の勝山城とはまったく無縁の、五層六階の日本一の高さ(57.8m)を誇る模擬天守の勝山城博物館(写真右)が近くに建てられました。威風堂々とした模擬天守です。模擬らしく石垣には、龍が9匹描かれています。
もし、市民会館建設がもう少し遅く、勝山城博物館建設がもう少し早ければ、勝山城復元という選択肢もあったのかも知れませんネ。

越前大野城の天守は復興天守です。信長政権時に金森長近公によって築城されたので、石垣も戦国らしい野面積みです。当時は二層三階の大天守、二層二階の小天守、天狗櫓が山頂に築かれ、麓に二の丸・三の丸を配置しておりました。江戸時代に大火で焼失、その後天守は再建されなかったそうです。昭和43年に復興された際、写真や設計資料も無いためか、岐阜城(復興)などを参考にしたので復興天守と呼ばれています。麓から見上げると、古風な天守が顔を出すので城に守られている感じがします。
この越前大野を城下町として整備し始めたのは、金森長近公でありその像が建っています。ちなみに飛騨高山城にも同じく金森長近公の像が建っています。(高山城の方が馬上姿でかっこいいのですが…)内政面に長けていたようで、『信長の野望シリーズ』でも地味に60台政治力をキープしていますネ。

諏訪高島城はかつて『諏訪の浮き城』と呼ばれており、諏訪湖の湖岸に面したお城でした。写真のように堀はめぐらされているので、当時を想像するしかありません。天守他の建築物も明治時代に解体されてしまいましたが、古写真をもとに昭和45年に復元されました。なんとなく古風な感じますネ。三層天守なんですが、見た目以上に大きく感じました。
戦国時代の高島城は茶臼山にあったらしく、大河ドラマ『風林火山』で山本勘助公と由布姫が出会うのはこちらの山城です。その後、豊臣政権時に日根野氏によって、現在の位置に築城されました。さらにその後の江戸時代、諏訪領を明治維新まで治めたのは、武田信玄公に土地を追われた諏訪氏でした。諏訪惣領家の従兄弟の家系ですが、武田家の旧臣の多い徳川家が考慮したのでしょう。

三原城は残念なことに、JR三原駅によって本丸部分が貫かれており、寸断されています。そのため本丸の天守台(写真左)に登るには駅構内から行くしかありません。そういう意味ではもっとも駅に近いお城と言えます。また、周辺の石垣が多く残っているのですが、見学するためには駅前を散策することになります。
写真では分かりにくいかもしれませんが、天守台の面積はすごく広いです。実際天守は建築されずに櫓が三基建築されていたそうです。
小早川隆景公が水軍のための海城として建築しただけあって、当時はこの辺りまで海に面しており、船入櫓〔(写真右)建築物はなく石垣のみ〕跡が残っています。現在は、市街地に完全に埋没しておりますが、在りしの日の古写真を見つけましたので、興味のある方はどうぞ。コチラ

山口城は山口藩庁とも呼ばれており、幕末に毛利敬親公によって築かれました。山口といえば、大内氏が有名ですが、当時山口城とは呼ばず、大内氏館と呼ばれており、ここより少し離れています。
もともと毛利氏は、関ヶ原の戦い敗戦後、ここ山口に城下町の建設計画もあったようですが、幕府より許可がおりませんでした。周防長門二ヶ国を治め、かつ交通の便を考えてもこちらの方が治めやすかったのでしょう。(幕末に建築した際は許可がおりたのでしょうか?)
現在も山口県庁と同じ敷地内に表門(写真:隠れてますが…)と堀の一部が残っております。城というより御殿風の建物だったようで、石垣等の防衛設備はありません。長州征伐の際に万一、籠城にでもなったらひとたまりもないでしょう。
山口県庁周辺は、旧県庁舎・県会議事堂などが無料で見学もでき、また駐車場も無料でした。(今はどうかな。)国宝五重塔の瑠璃光寺も近く観光には最適です。

先日紹介しました、龍野城の背後にそびえる鶏籠山の山頂にあるお城です。おそらく、もともとこの城を龍野城と呼んでおり、その後江戸時代、山麓に御殿風のお城が出来たので、区別する為に鶏籠山城または龍野古城と呼んでいるのだと思います。
登城口は、その龍野城にあります。中世の山城らしく土塁・石垣・曲輪が残っており、『本丸跡』などの案内掲示もされており、整備もされているようです。
八幡宮とあったので神社かなにかの跡地かもしれませんが、石だたみ・古城石段あとが良好に残っていました。かなり遺構が残っているので、山麓の御殿だけでなく、こちらにも是非立ち寄りましょう。
山麓の龍野城と城下町、そして山頂の鶏籠山城、じっくり時間を取ることをオススメします。
ひとつ気になったのは、光秀の年齢です。一般的に55歳(1528年生)で亡くなったことになっていますが、著者は67歳説(1516年生)をとっています。いくつかの資料を挙げられていますが、この説だと光秀の子光慶は54歳の時の子(まぁ不思議ではないですね。)旧知の仲ともいうべき、細川藤孝公(1534年生)とも20歳近く離れていることにもなります。同じく、主君の織田信長公(1534年生)とも同じく20歳近く離れていることになるのですが、そんな老人相手に一度でも足蹴にしたとなると大人気無い主君です。
まぁ、謀反人とはいえ、光秀の青年期があまりにも不明な点が多すぎることが、真実を見えにくくしていますね。
直江兼続=妻夫木聡 上杉謙信=阿部寛
上杉景勝=北村一輝 お船=常盤貴子
初音=長澤まさみ 樋口惣右衛門=高嶋政伸
お藤=田中美佐子 樋口与七=小泉孝太郎
泉沢久秀=東幹久 上杉景虎=玉山鉄二
華姫=相武紗季 菊姫=比嘉愛未
仙桃院=高島礼子
ちなみに、 お船は兼続の妻、初音の真田昌幸公の娘、樋口惣右衛門は兼続の父、お藤は兼続の母、樋口与七は弟です。
一応、来年のの大河ドラマが『天地人』と決まった時点で小説を読みましたが、泉沢久秀公がこの時点で発表されるほど重要人物だったか思い出せません。まぁ、大河なんで、原作を少々離れるとは思いますが…。真田幸村公・前田利益(慶次郎)公・石田三成公・伊達政宗公、徳川家康公など、小説ではさほど絡んでない人物も大きく取り上げられると思うので、その配役も気になるところです。
あっ、ちなみに今年の『篤姫』はまったく見ていませんのでこのブログでも記事にはなりません。
まだ、文庫本は出版されていないんですね。
あと、定期的に自分が読んだ歴史本も紹介していきます。今後ともよろしくお願いします。










