蟠龍戦記
自分の巡った城・城跡を紹介します。
上総大網陣屋
上総大網陣屋1
大網陣屋は、明治時代になってから成立した大網藩の陣屋です。場所は、大網幼稚園の北にある蓮照寺。普通のお寺で遺構は無く説明板などもありませんでした。ただ、写真の山門が陣屋門にも見えましたので、コレだけ撮影して帰りました。
上総大網城
上総大網城1
大網城は、大網幼稚園の西の更地(旧大網小学校の跡地)の裏山にありました。この山には、JR東金線が走っているため遺構はありません。旧小学校のためか、門がありましたが、中へは入れました。山の麓に行くと階段があり、日吉神社の鳥居がありました。さらに登ると、写真の建物があり、さすがにこの上は行けませんでした。

石碑や説明板も無いちょっと寂しいお城でした。
桶狭間の四人 光秀の逆転
歴史時代小説と書きたいところですが、ちょっと一風変わっています。メイン登場人物は、明智光秀木下秀吉織田信長松平元康の4人。史実で桶狭間合戦に光秀が参戦していたのか謎です。というか可能性は低いでしょう。早くから光秀と秀吉が出会い京へ行って足利将軍と出会ったりしています。完全なる仮想戦記でも無く、大筋は合わせながらも、独特なキャラクターの4人で進んでいきます。

前半は、ぶっ飛んだストーリーに思えましたが、後半の桶狭間合戦は、天候の件など最近の研究を取り組んでいました。ちょっと笑えるある意味ファンタジー大河ならぬファンタジー読物です。

あとで気がついたのですが、この本はシリーズ化されているようで今作で4作目。金ヶ崎合戦・姉川合戦・長篠合戦と続いて、桶狭間に時代が戻る形になります。

上総土気城
上総土気城1
土気城は現在、ひまわりの郷とよばれる養護施設が建っています。車で南側からアクセスすると、説明板が左手に立っています。この辺りが三の丸で、そこから数メートル進んだ施設の入口前に空堀が見えます。ただ、コンクリートブロックで固められていますが…。

施設内部に入ると、モアイ像のような石像が設置されていましたが、その背後は土塁のようにも見えました。建物が建っているところが二の丸で、写真の石碑が立つ辺りが本丸のようです。写真のように段差があったり、土塁らしきものもありました。

見落としたのがクラン坂と呼ばれる切通し。土気城は、第二次国府台合戦の際、北条方の来襲をこの切通しを利用して退けたといわれています。そんな歴史のある場所を見落とすとは…。とはいえ施設が建ってはいますが、遺構もよく残っているので、一見の価値はあります。
上総大椎城
上総大椎城1
大椎城(おおじいじょう)は、平安時代に房総で反乱を起こした平忠常が築城したと伝えられています。その後、曾孫にあたる千葉常兼より千葉氏を名乗り居城としたことがあるので、千葉氏発祥の地ともいわれています。さらにその後、常兼の子・常重が亥鼻城(千葉城)を築城し居城としました。戦国時代には、土気城を居城とする酒井氏の支城として利用されました。

場所は千葉市緑区にある、あすみが丘第8緑地になっており、高級住宅街の南になります。お城の北西に説明板があり、自分はそこから登城しました。とはいえ、麓を東へ歩き、それから山へ登ります。最初は適当に獣道を登りましたが、郭と郭の間で堀になっていました。郭は広いですが、藪状態だったので散策できませんでした。

麓の東へ行く道がまだ続くのでさらに行くと、今度はしっかりした階段道がありました。麓道もそうですが、以前は整備されていたのでしょう。この道もまた郭と郭の間の堀になっていました。同じく郭にも登りましたが、一方は、藪状態で一方は草が刈られていました。同じく広い郭です。

やはり夏場だったこともあり、もう少し時期が違うと、遺構の確認もしやすかったかな。
上総立山城
上総立山城1
立川城へは、千葉房総有料道路の大木戸ICから北東へ進みます。団地へ入る手前(新大椎橋より西で道を登りきったところ)に北へ曲がる道(曲がったあとは数メートル道沿いを北東します)があります。これをまっすぐ進むと、写真の石碑が右手に現れます。正直、ちょっとわかりにくいです。案の定、自分は北へ曲がる道を間違えて、関係のないところをさ迷ってしまいました。

北へ曲がる手前に車を停め、北東方面へ登ると山道へ入り、少し歩くと堀らしきものが見えます。ただ、その窪みに大量の不燃ゴミが捨てられていました。これはヒドイ。唯一といってよい遺構が台無しです。さらに進むと、写真の石碑簡単な説明板がありました。その奥へも行きましたが、遺構らしきものはやはり、堀だけのようです。

それにしてもあのゴミは…。ある意味、城攻めなどの『堀を埋める』ってこういうことなのか…
おんな城主直虎第41回『この玄関の片隅で』
いや~面白かったですね。個人的に今回のような歴史とうま~くリンクさせた史実っぽいお話好きです。長篠合戦で馬防柵を作るために木材を準備させる、よく考えられたストーリーのように思いました。さらに、それを妨害する直虎。というより、確かに井伊谷は近藤家の領地なのでまさに正論です。

あと、あの鷹匠、本多正信だったんですね。これは、気付きませんでした。本多忠勝が怒りだしたぐらいで、なるほどと思いました。これもよく練られています。

直虎紀行は、本多正信つながりで、三河一向一揆の拠点ともなった本證寺。一度行きましたが、お城のような櫓が印象的なお寺でした。

そして、来週は長篠合戦。選挙で放送時間が早くなっているので、お間違いのないように。(自分は仕事だな…)

下総生実城
下総生実城1
生実城(おゆみじょう)の説明板は、生実神社に陣屋と一緒になったものがあります。神社にある堀跡などは、お城の遺構にも見えますが、本丸は神社から北西の住宅街にある児童公園になるようです。(写真)ここにも説明板があり、『北小弓城跡(生実城)』と書かれています。説明板によると、第一次国府台合戦後に小弓公方が滅亡し、その後に築城されたそうです。小弓城としているのは、小弓城(小弓公方の居城)の北に築城されたので、この名前が付いているのでしょう。

遺構もない児童公園ですが、それにしてもややこしいなぁ~
下総生実陣屋
下総生実陣屋1
生実陣屋と書いて『おゆみじんや』と読みます。やはり場所は、小弓城の近くで生実神社になります。神社南側の県道66号線には、『森川氏城址』と書かれたの石碑が立っています。

もともとここには、生実城(小弓城とは別)がありましたが、江戸時代に生実陣屋が新たに築かれました。そのため神社内には、生実城と生実陣屋の説明板がありました。

やはり神社ということもあって遺構少ないですが、西側に大きな堀・東側には土塁らしきものが残っていました。
下総小弓城
下総小弓城1
皆さんは小弓公方はご存知でしょうか?室町時代、足利一門の鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分かれ、さらに古河公方から小弓公方が独立しました。その小弓公方の居城がこの小弓城になります。というか、ここを居城にしたので、小弓公方と呼ばれるようになったのでしょう。

自分も古河・堀越両公方は知っていましたが、小弓公方については知りませんでした。信長の野望シリーズに登場するようになって、その存在を知り調べてみると、僅か一代で滅び、天下人豊臣秀吉のもとで喜連川氏として復活、江戸時代は、喜連川藩として存続する、という波乱万丈の生涯の一族だったようです。

そんな足利一門の小弓城ではありますが、遺構はほとんど残っていません。写真の墓地の一角に石碑と説明板があります。自分は、ここから東にある八剱神社周辺に車を停めて歩いていきました。墓地がわからず近所の方に聞きました。神社の西側に堀のような跡があったりと、周辺が城跡らしい雰囲気はありますが、明確なものは少ないです。

堀越御所・古河御所も寂しかったですが、小弓御所もまた寂しいところでした。